Weekend Mathematics/コロキウム室/1997/NO.4
NO.29 8/20 骨皮筋衛門(No.26を受けて)
*まず「大学入試の科目から英語をなくす」
という審議結果について僕は高等学校で英語を教える立場にいますが、
全く知りませんでした。
中高一貫教育、飛び級、医学部の入試で面接を課す、
といった考え方については審議されてきており、
また具体化に向かっているものもあると聞いていますが、
「英語をなくす」件は読んだ覚えがありません。
不勉強なだけかもしれませんが、
できればニュ−スソ−スが知りたいなという気もします。
仮に話題になったとしても、特定の大学で英語をなくすことはあるでしょうが、
全体的になくなることはまずないのではないかと推測します。
そこまで踏み切ろうとすれば、
この国際化が叫ばれている時代に英語こそ必要ではないのか、
といった主張がブレ−キをかけることになるだろうと思うからです。
ただ、そういうブレ−キのかけかたが生まれ、
言われた方も納得してしまい、
今はむしろ実際に役に立つ、使える英語への方法論を確立し、
実践してゆくべき時であるといった方向に
議論が進むことが英語教育にとって本当に良いことなのか
僕は疑問だと思っています。
生きるために必要なこと、まさに実践的な知識・知恵を若者に
伝えることを使命とした教育の、
ある意味では原点に戻って教育を見直すことが、
真に学問の発展を促し、
我々の精神生活を含む人間としての豊かさを創ってゆくことに
繋がるとは思えないというのが僕の思いだからです。
それはともかく、もし全面的になくなったとしたら何が変わるか。
とりあえず目先の利用価値が薄れることが英語教育・生徒の英語への取組の
姿勢にどんな影響を与えるか。
一度そういうことがあったほうが外国語を学ぶ意味や
価値に純粋に向き合う機会を与えるという意味では面白いかなと
無責任に思ったりもします。
あくまで個人的にはですが。
生きざるを得ないから、
生きるためには言葉を使わざるを得ないから、
やむにやまれず言葉に向き合う。
そうするうちに言葉を愛するように、
生きることを愛するようになっている。
それでいて時に見失ったり、裏切ったり、
裏切られた思いに陥ったりしながら
振り子のようにまた戻ってゆく。
言葉と向き合うということはそういうことだと思っています。
そこには利用価値というようなものは存在しない。
利用価値が生じるのは結果であって、
目的ではない。
英語であれ日本語であれ、
扱いやすさ・難しさの差はあれ、
言葉への向き合い方の原点は僕にとってはそうしたものです。
その上に立って言葉を若者が学ぶきっかけを作る仕事を選んだ。
その意識がなければ続けてくることは多分できなかったでしょう。
膨大な情報を早く、
手際よく入手し生活に役立てる。
なるほど一見魅力的ですが、
僕個人にとっては本質的なことではない。
その過程で失うもの、
失っていることにさえ気付かないことのほうが
恐ろしい。
とまあ、何をどんな風に教えてゆくことになるか
といったことを考えるに先立って思ってしまうことは
そんなところです。
*英語下手の理由としてお挙げになっている諸点に
関連して
1.僕は20年以上高等学校で英語を教えてきましたが、
最近やはり英語は難しいとよく思います。
生徒にとっても(学校によって多少の差はありますが)
易しいものではないだろうとも思います。
そう考える理由を1つあげるとすれば、
生活語彙を中心とした語彙不足、
思考力を育てる努力の不足かなと
思っています。
生活に密着した語彙の中には幼い頃に習得し、
大人になってからはさほど使わなくなるであろう語も含まれます。
これは多分grammatical sense を含む語感を培い、
思考力が向上してゆく精神形成の過程
で大切な役割を果たしてきているものだろうと思うからです。
この部分を補うことは多分相当難しいだろうと思います。
そしてこのことを海外で生活をすることになった時には
おそらく痛感することになることではないのかとも思います。
2.「実用英語とかけ離れた(学校)英語」
というとらえ方について実用ということとは少々ことなりますが、
英文に接する時、とかく忘れられがちだと思うことは、
「実際に使う場面」の中で英文を意識する訓練の不足です。
使う場面が想定困難な例文を文法理解のために必死に読もうとすること
の愚かしさを時々想います。
いろいろな場面で我々教師は「実際に使う場面」を
意識せずに英文を読ませていることに気付くことがあります。
いかに場面の中で生きる言葉を教材の中に盛り込み、
生きていることに気付かせる指導をするか、
筆者・話者の意図をくみ取る英文との接し方を
心掛けるといったことが英語を学ぶ上で大切なこと
のひとつだと僕は思います。
それが英語を使えるようになる素地を作り、
実用的英語を身に付ける土台になっていくのだろうと思っています。
どんな教材を使にせよ、
使い方をそれぞれが自分なりに工夫し、
発展させる意識がなければ退屈なものになるだけです。
学校で学ぶ英語に実用性が乏しいといった指摘が
様々な歓迎すべき変化をもたらしてきていますが、
受け身で接しているかぎりは、
また大人数の授業展開が改善されないかぎりは、
大きな期待はできないだろうと思ってしまいます。
一方で、僕は、僕自身が受けてきた英語教育が
全く実用性に欠けるものであるとは思っていません。
僕は40近くまで英語圏に行ったこともありませんでしたし、
特に話すことは(英語でも日本語でも)苦手ですが、
数年前ひと月程、いくつかの国で学校訪問をし、
ささやかながら通訳のまねごとをさせられたことがあります。
学校のしくみ、教育理念・方法といったことについて
相互に意思を伝えあう点では(それなりに下準備はしましたが)
大きな失敗はしない程度にはなんとかなりました。
もっともこれが実用性を実証するものであると
言えるほどのことでもありませんが、
ただ、成人として必要な語彙・概念といったものは、
自分が直接関わっている分野のことであれば、
そしてやらざるをえない場に追い込まれれば、
これまでの学校教育の延長上で、ある程度身につけ、
使うことができるものだとは思っています。
また、譬は稚拙ですが、横にした串団子状の英文構成と
ブ−メラン式(と言って伝わるでしょうか?)
日本文構成の違いは慣れることである程度克服できるものだと
思いますが、英文を読んでいて、
文法的知識を適用できなくて最初は分からないと
思っていたのだ、ということに
後から気付くこともよくあります。
その意味で、どうアプロ−チするかという問題は
ひとまず措くとして、−といってもそれが重要でないと
いうことではなく、むしろそれこそが教育という観点からすれば
重要なことなのですが
−文法は学校での英語教育に必要であり役に立つと思います。
文法を学ぶことが大切であると考えるS.I.さんに
同感です。
実用英語というものを学校で学ぶ英語と対極にあるものとして
のみ考えると、
言葉を学ぶ本当の意義が忘れられてしまうような気がします。
3.発音に関して
子音に限らず、音の連結に伴う部分的消滅や変化を含めた、
聴き取りや発声の訓練は個人的に繰り返して
行っていくしかないのでしょうが、
そうした訓練の不足はご指摘の通り、
教師を含めて真剣に意識すべきだと思います。
ただ、これを40人もいる教室で一人一人が
納得の行くまで実践することはまず不可能です。
4.日本語は内容豊かで英語は貧弱であるという
お考えについてこの点に関しては簡単には同意致しかねます。
内容豊かということがどういうことをおっしゃりたいのかよく掴めないからです。
ひとつの言葉にその語を生み出した時代の、
そしてその時代の人々の想いが込められている現象を
指すのであれば、
日本語も英語もそれぞれに親近感を覚える程度の差こそあれ、
歴史的重みを担っている筈です。
また、一定の言い回しとしての語句を作った精神の軽妙さ、
意味深さを指すのであれば、これはひとつに好みの問題とい
うことにもなりましょう。
さらに、ある人がひとつの文を作った時に生まれ
る意外性・素直さ・屈折・透明度といった味わいを
指すのであれば、読み手の心的状態をも問題にしなければ語れません。
そして、文の集合としての小説であれエッセイであれ、
詩や戯曲に対して言うのであれば、背景としての時代
や地域性、あるいは読み手の問題意識といったことが総合的に問われなければ
語れません。 芸術性を云々する文章ではなく
日常的な説明的文章について比較するとしても、
分かりやすさや効果の度合いの差という意味では、
主としてご指摘の語順の違いからくる
微妙な相違はあるにせよ、
そこに豊かさという受け止め方が介在するとは
あまり思えません。
という訳で、内容豊かという表現の真意を教えて
いただけたらと思います。
以上、雑感です。
読み返してみると言葉が足りない部分が
多々ある気がしますが、
これ以上長くなってもと思い、切りあげます。
S.I.さんが期待する返信にはなっていない部分も
多いことも気になりますが、
勝手な感想としてお読み下さい。
NO.30 8/20 のんべえ熊
例の入試から英語をはずすという件、やはり、
中教審答申の中にありました。
たまたまインターネットで見つけた資料にあったのですが、
要は選択にしてもいい、
英検の資格で代用してもいいのではないかといったものです。
かなり、その筋で物議をかもしているようです。
NO.31 8/22 S.I.
やはり現場の先生はよくわかっておられるようで、
たいへん頷けるものでした。
日本の教育もまだまだ大丈夫だわい
(おまえはなにもんじゃ?と言わないで下さい。)と
胸をなでおろした次第です。
ただ一点、私が「英語は内容が貧弱、日本語は豊富」
と書いたのは、たいへんまずい表現でありました。
私が言いたかったのは、こういうことです。
例えば、「〜から」という表現。
場所をさして「ここから」とも言えるし、
時間をさして「今から」とも言える。
英語でもfromを使って、from hereとも言えるし、
from nowとも言える。
「私からあなたへ」は、from me to you。
とてもよく発想が共通している。
ところが、特殊な表現ですが、例えば、
何かの式の挨拶か何かで、
「誠に高いところからではありますが、皆様にご挨拶申し上げます」
とか、「誠に僭越ではありますが、
乾杯の発声をさせていただきます」とか言いますね。
これを英語で、ニュワンスを
含めて表現しようと思ったら、これはたいへんです。
I hesitate greeting from the high position like this.
何だこれは?
I am so sorry that the person like me is honored to say "cheers".
つづりも文
法もめちゃめちゃです。
日本語でいう、この種の表現ていうのは、
そのままではなかなか英語にはしにくい。
私のような英語力のない人間は、
しゃべるときにまず日本語でかんがえちゃうんですね。
うーん、そしたら英語ではいい表現がないじゃないかと
「誤解」するわけですよね。
とすると、言語としての差だけでなく
、言う内容の違い、もっと言えば文化の違
いを埋める作業が必要なんですよね。
よく考えると、そりゃ、
アメリカ人が式典かなにかで挨拶するのに
「high positionからでsorryね」とは、
これは始めから思わない。
乾杯するのに一言あいさつして一
人が先導して乾杯!なんて言わない。
そんな習慣はない。
別の例で言えば、人にプレゼントをわたすのに
I am sorry this is trivial.
(つまらないものですが、どうぞ。)とか言ったら、
Why do you give me such a thing?(ほな、くれるなよ。)と
なっちゃうわけですよね。
そういう面まで教えてもらえたら英語が
楽しいものになるんじゃないかな、と思うのです。
また「貧弱」と申したのは以下のような
こころもちであったのです。
これも英語力不足に起因する問題でしょうが、
何かいい匂のものがあって、頭で「豊潤な香だ」と思っても、
「香ばしい匂いだ」と思っても、
「芳しい匂いだ」と思っても、
「おいしそうな匂いだ」と思っても、
私のような英語力では、
全部 It smells good. になっちゃうんですよね。
「豊潤」なんて英語で言う能力はない。
そういうことにもどかしさを初学者は感じますから、
それが「英語(私の英語というべきだったでしょう)
は内容が貧弱」と言う言い方になってしまったのです。
先生方の言われるように、言語や文化をこちらが豊か、
とか、貧弱、とか、は言えませんよね。
この表現は間違っておりました。
反証しましょう。
学校で習うnot more〜 than, no more〜 thanなんて表現は
日本語にはありませんよね。
直訳なら、「より多い、ということはないような」???、
「より多い部分がないような」????。
日本語はこんな表現もないのか、貧弱だな、
と思うアメリカ人もいるかもしれない。
つまり、言語面でも文化面でも、両者の強弱というか、
色の濃さ、がケースケースで
ずれることがあると言えばいいでしょうか?
まあ、そういう溝を埋め合わせる作業が
学校でも教えてもらえたらよかったな、
という気持ちだったのです。
しかし、この点も「骨皮筋衛門」先生は「場面に適応する英語」
として述べておられましたので、
私がご指摘するまでもないことであったのだなあ、
と安堵しているのです。
NO.32 8/23 のんべえ熊
文化の違いは、なかなか、
善し悪しの問題に解消するわけにはいきませんが、
ある具体的な局面を想定した場合、
どうしても、
そういう感じを持ってしまうことも理解できることです。
今回あげておられる匂いの形容の例などもその一つかも知れません。
ただ日本語の形容詞の豊富さは、漢字に負うところ大なわけで、
大和言葉だけで会話したら、それこそみな「いとおかし」
に集約されてしまうのではないかといった印象も一方ではあるわけです。
日本語の持っている自由度は漢字の自由な組み合わせと、
音訓の読みの使い分けに拠るところが大きく、
そこが外国人にとって日本語習得の難しさにもなっていると思います。
日本語をそのまま英語にしても通じないという問題は
表現上の問題と文化の問題が複合されていると思います。
話すことにおいても、会話においても、結局、
直訳は無理だということを最初から肝に命じるべきなのですが、
翻訳調といったものを取り込んでしまう寛容さ(?)
も日本語にはあるので、(たとえば「〜するや否や」
といった表現)逆もまた真なりと言う無意識の了解が
英語らしく表現することを妨げている、とも言えるかもしれません。
つまり、日本語的に言葉を組み合わせても何とか通じるのではないかという具合に。
ところがそれは、ほとんどの場合真ではない。
結局、けったいな英語を書いたりしゃべったりしてコミュニケーションが
成立しないといった結果に終わることもままあるわけです。
日本人の英語ができないことの背景にはこのような、
日本語の寛容さ,というかフレキシビリティーが裏目に
働いている面が確かにあるように思えてなりません。
単語や文を翻訳するのではなく、
情況を写しかえるというように発想すべきではないかと思います。
つまり、単語でなく、文である以上
(一単語が即文である場合ももちろんあります。)
それは必ず、何らかの想定された情況が表現されている、
あるいは情況がその表現に付随しているはずだと考える。
その情況が英語でどう言ったら伝わるかと発想するわけです。
すでに知らず知らずのうちにやっている例を挙げれば、
「おはよう」という挨拶をYou are early.とかEarly.
などというように単語で考える人はいないわけで、
ちゃんとGood
morning.といえるわけです。
これは典型的な例、
しかも挨拶なので間違わないで置き換えることができますが、
実際はなかなか単語の呪縛から逃れることはできません。
一応英語らしい文が言えるようになるとなおさらこの呪縛が強くなります。
結局文化の違いに対する意識なくしてはこの点を
クリアーすることは完全にはできないのではないかと思います。
たとえば、S.Iさんが例に出しておられるパーティーで
の乾杯の場面での口上ですが、
英語文化にはあのような場面での定型としての口上は
多分ないのではないかと思います。
無い物を、日本語を頼りにして作り出そうと
するところに無理が生じます。
従って、英語でかしこまって口上を考える必要はないわけです。
代わりにそのような場面では、なにか気の利いた、
ユーモアを含んだことをちょっとしゃべることが、
英語文化(とりわけアメリカ文化では)要請され
るのではないでしょうか。
(私自身の現場経験もないのにおこがましいのですが)
そういえば日本語の「いただきます、ごちそうさま」
「いってきます、ただいま、おかえりなさい」
にあたる定型の表現も英語にはありませんね。
ただ、日本語ができるあるアメリカ人が
これは英語にできないけれどいい表現だといってました。
同じように「懐かしい」とか、
「彼は渋い」なんていうのも英語にはできないとその人はいっていました。
当然、逆の例もたくさんあるはずで、歌の歌詞にああ、
これはいい表現だけど日本語にならないな、
なんていうのがよくあるのですが、すぐ思い浮かびません。
単語の例で恐縮ですが一つ。
いつも生徒にも言っているものですがlifeという簡単な単語。
実にいい言葉でぼくの好きな英語の一つです。
これを日本語にしようとすると次のようないくつかに、
文脈によって分けて使うしかありません。
「生活」「人生」「生物」「生命」です。
しかし、いつももどかしさを感じないわけにはいきません。
「生活」という言葉はそれこそいかにも生活臭い、
「人生」は浪花節演歌調、「生物」「生命」などは理科的でそっけない。
life自身はこれらすべてを包含しており、
生きていることのすべての有り様を表現しているわけで、
そのすべてを込めて使われているなと思われる場面も少なくないのですが、
いかんせん日本語にしようとすると上のどれかにするしかなく、
日本語はこの場面では貧しいなと感じてしまうのです。
英語を話したり、書いたりすることに話を戻しますが、
ぼくは基本的には「英借文」がいいと思っています。
つまり、英語の出来上がった文を借りて、自分の文脈
に合った単語を差し替えることによって文を作ることを基本とすることです。
とくに英作文の授業では必ず最初に英借文を目指せといった話をしますが、
話すことも基本的には同じだと考えていいと思います。
これは、14カ国語をその方言までふくめてマスターしたと
いわれているあのトロイの遺跡を発掘したシュリーマンのやり方です。
これは、おかしな英語を作ってしまう危険が少ないやり方です。
しかし、そうやって作った文が本当に有効かどうかは
文脈によって決まりますから、
そこには先ほどいったような文化の差異の問題がある事は言うまでもありあません。
面倒くさいですが、
そこにこそ言葉を学ぶ面白さもまたあると思っています。