Weekend Mathematicsコロキウム室/NO.184

コロキウム室



NO.1479 2004.9.1.水の流れ順位決定戦

第143回数学的な応募問題

 太郎さんは、アテネオリンピックの野球の観戦をしていて、 予選リーグ戦方式と決勝トーナメント方式のあり方に疑問を待ちました。 女子ソフトボールみたいなページシステム方式ならと考えてしまいます。
 もし、順位だけを決定する試合を行うとすると、一体何試合が必要になるか考えてみました。 できるだけ少ない試合数で順位をつけたいと思います。
ただし、次のようなルールで行います。

 (1)AがBに勝ち、BがCに勝ったときは、AはCに勝つものとする。即ち、試合を行いません。
 (2)引き分けはないものとする。
 (3)各チームごとの試合数の多い少ないは考慮せず、総試合数だけを最小にする。

例えば、2チームで行うときは明らかに1試合で順位を決定できます。ここからが問題です。

 問題1:
  3チームのときは、最低何回の試合で順位を決定できるか。具体的にいろいろな場合を考えてください。

 問題2:
  4チームのときは、最低何回の試合で順位を決定できるか。具体的にいろいろな場合を考えてください。

 問題3:
  5チームのときは、最低何回の試合で順位を決定できるか。具体的にいろいろな場合を考えてください。

 問題4:
  同じルールで、(n+1)チームのときとnチームのときでは最小総試合数の間にはどんな式ができるか、予想してください。

追加:できたら、nチームのときは、最低何回の試合で順位を決定できるか。考えてください。


『注:ページシステムとは、敗者復活戦を含むトーナメントで、 「2つのセミファイナルとファイナル、グランドファイナル」で構成される。
1次リーグ3位と4位が第1セミファイナル(8月22日第1試合)を行い、敗者は4位確定。 勝者はファイナル(22日夜の試合)に進出。
1次リーグ1位と2位が第2セミファイナル(22日第2試合)を行い、勝者はグランドファイナル(23日)へ。 敗者は第1セミファイナルの勝者とファイナルで対戦。
ファイナルでの敗者は3位(銅メダル)確定。勝者はグランドファイナルへ。
グランドファイナルは決勝戦で、勝者が優勝(金メダル)、敗者が準優勝(銀メダル)確定。




NO.1480 2004.9.2.Junko写像と数列(2)

これは「素因数分解」の話ですね。

(1)nが2以上の素数であるとき、nが次のように素因数分解されていたとします。

    n=p1・p2・p3・・・pk

ただし、piは素数、かつ p1≧p2≧p3≧・・・≧pk>1とします。

(i)より、

f(n)=f(p1・p2・p3・・・pk)
=max{f(p1),f(p2),f(p3),・・・,f(pk)}
=max{p1,p2,p3,・・・,pk}     [piは、素数なので、(ii),(iii)より、f(pi)=pi]
=p1

つまり、f(n)は、nを割り切る最大の素数となる。

(2)2以上の自然数であるa1が、次のように素因数分解されていたとします。

    a1=p1・p2・p3・・・pk

ただし、piは素数、かつ p1≧p2≧p3≧・・・≧pk>1とします。

このとき、f(a1)=p1ですから、a2=a1/p1=p2・p3・・・pk

次に、f(a2)=p2ですから、a3=a2/p2=p3・p4・・・pk

同様に、f(a3)=p3ですから、a4=a3/p3=p4・p5・・・pk

・・・

ak=pk

ak+1=ak/pk=1より、f(ak+1)=1

ak+2=ak+3=・・・=1 かつ f(ak+2)=f(ak+3)=・・・=1

n>kと考えてよいから、







NO.1481 2004.9.5.本多欣亮文学的な問題(1)

文学的な問題(「随伴」と「陪」ってニュアンスがどう違うの?)
数学用語で「随伴行列」と「陪関数」という用語があります。 いずれも、「〜から導出される」「〜と一緒になっている」「〜の補助的な」の ような意味があろうかと思いますが、この辺の日本語の訳語・用語の採用決定に 至った歴史的経緯など御存知の方、ぜひ教えてください。

※講義で、陪関数という字を板書したら「先生!倍関数の誤りじゃないんですか ?」と質問した学生がおったとか。日常使わないような難解な語句・漢字は、意 味を明確に説明・理解しないといけないなぁと思っております。



NO.1482 2004.9.12.yokodon文学的な問題(2)

Google で調べてみました。この日本語の用語が採用されるに至った歴史的経緯は よく分かりませんが、 東京農工大学佐藤研究室のページ によれば、

「陪関数というのは associated function の訳で、同伴関数、随伴関数 、従関数などと訳されています。別の関数から微分や積分の形で与えられるような関 数という意味」
なのだそうです。



NO.1483 2004.9.12.yokodon写像と数列(3)

NO.1480 を拝見しました。仰る通り、素因数分解が題材です。

記法を変えて、素数とは限らない自然数 n の素因数分解の表記が、
素数を p1 >p2 >...> pk (≧ 1) とし、
非負整数を b1, b2, ..., bk として、

    n =p1b1・p2b2・...・pkbk

と出来ることを用いれば、 問(1)は

f(n) = max{f(p1b1), f(p2b2), ..., f(pkbk)}
= f(pjbj)
  (ここに、bj は bi (i = 1, 2, ..., k) の中で、最初に現れる 0 でないもの)
= max{f(pj), f(pj), ...f(pj)}
  (max{ } の中に bj 個の f(pj) がある)
= f(pj)
= pj

の様にも出来ます。

若しくは、f(n) の引数 n に関する数学的帰納法でも示すことが出来ます。

 後半の問(2)に関しては、an+1 = an/f(an) の関係式を用いると

    f(a1)・f(a2)・...・f(an) = a1/an+1

・・・ですから、

    

は、結局

    

と同値です。これを示せばよいわけです。
 ところが、上記のように

    n =p1b1・p2b2・...・pkbk

とおけるとすると、NO.1480 のJunkoさんの議論と同様にして、充分大きな有限の n に おいて(具体的には、n ≧ b1 + b2 +...+ bk + 1 のとき)an = 1 となること を示せます。

 これも、a1 が m 個の自然数で表せるとして、m に関する数学的帰納法を用いて 示すことが出来ます。

#同義反復になってしまいました。



NO.1484 2004.9.12.yokodon可換な行列の全体(1)

最近、バイト先でこんな問題に遭遇しました。

[問題]
 与えられた実2次正方行列Aに対して、ゼロ行列でないある実2次正方行列Xが存在し、


...の3つが成り立つためのAに関する条件を求めよ。

 この問題そのものの答えは「Aが単位行列の定数倍でないこと」なのですが、これ を一般の n 次正方行列の場合に拡張したらどうなるのだろう?という疑問が湧きま した。n = 2 の場合は(やや手間のかかる)成分計算を経て結論にたどり着けます (#興味のある方はお試しを)。が、n ≧ 3 の場合は、成分計算ではドツボです。

 念のため、予想も含めて(問題そのものの適不適は度外視して)改めて問題を記す と、こんな感じでしょうか。

[問題]
 与えられた実 n 次正方行列Aに対して、ゼロ行列でないある実 n 次正方行列Xが 存在し、


...の3つが成り立つためのAに関する条件を求めよ。

[結果の予想]
 Aが単位行列の定数倍でないこと。

 成分計算では押し進めがたいとなると、線形代数を知っている者としては、一般ベ クトル空間の議論を考えるのが自然でしょうか。与えられた行列Aに対して、それと (通常の行列の)積に関して可換な行列Xが必ず存在することを示すのは、AX=X Aの式をB[x] = [0](右記で、[x] は行列Xの成分を全て縦に並べた n2 次元ベ クトル、[0] は n2 次元ゼロベクトル、Bはある n2 次正方行列)の形にしたとき 、det(B)=0(実は、rank(B) < n2)が必ず成り立つことを示せば良いので、比 較的簡単そうな感じです(一般の場合は計算が面倒臭そうですが;しかも、rank(B) < n2 は...現段階の僕の中では...予想の域です)。

 問題は後半です。行列の多項式X=Σpk・Ak(和は、k:0 → n)において、A が単位行列の実数倍でなければ、{Ak}(k = 0, 1, ..., n) は“線形独立”(#ホ ントかな?)なので、実 n 次正方行列の全体Mn(R) に関して、Xの全体はこれの 線形部分空間(Sと名付けます)をなすことが分かります(#多分...)。そのXの中 で、AX=XAを満たすものの全体(Tと名付けます)が空でなく、TがSの真部分 集合であることが言えれば良さそうです。しかし、どうやってこの議論を進めればよ いのでしょうか?
 上記の予想に対する反例の存在も気がかりなところです。

 本件に関しては、漠然とした問題意識だけなら数年来あったところですが、真面目 に取り組んだことがないもので、久々に大思案を重ねて、上記のようにつっかえてお ります。
 興味をお持ちの方がいらっしゃったら、検証していただけると有り難いです。



NO.1485 2004.9.18.DDT実数のアイデア

 連続量を表す実数の概念は、本来非常に直感的で分かりやすいものだと思います。 ちょっとでも数字に興味のあった人なら、分数(有理数)を知ったときに、 それが連続量を表すものだと漠然と予感したはずです。 通常正式な実数との出会いは、初めて黒板に「 → 」(x軸)が現れ、「 → 」を数直線と呼び、 この上の点が連続量を表すと教えられた時です。 そして、試しに自然数をこの上に表すとこうなるよと、 数直線上に自然数が目盛られた瞬間に有理数が連続量を表すという、この予感は決定的になったはずです。 つまり発想の原点は物差しです。ところが次に、 は有理数でないと言われます。それも背理法を使った巧妙な方法で。 思うにこの時点では普通、背理法などという証明には慣れておらず内容もろくにわかりません。 人間気持ちの悪い物や都合の悪い事は無視しがちです。 が有理数でないのは何か稀有の例外のようなもので、 深刻に気にすることはないという気分になりますが、 このとき「有理数 = 連続量」という図式が少しだけぐらつきます。決定打を食らうのはもう少し後です。 有理数は実数直線を隙間なく埋め尽くすのに(常識的な意味で)、 その無いはずの隙間に、なおも無数の無理数があると言われた時です。 この時点で「物差し = 有理数 = 連続量」という図式がもはや維持できないものと、心のどこかで覚悟します。 実数が突然正体不明な何かに化けます。でも実際上は、旧来の発想で計算も何も片付くので、 表面上ことは静穏に推移します。
さて大学に入ったとします。大学の授業には、実数の正体に応えてくれる明快な解答が用意されているに違いない!。 人によるとは思いますが、そんなことはありません!。
いわく「デデキントの切断が実数の連続性を表す」、いわく「閉区間の減少列は空でない(実数の連続性)」、 または「コーシー列の同値類による実数の構成」などです。 「物差し = 有理数 = 連続量」という単純明快な図式からは、どんどんかけ離れていきます。 でもこの図式は、そんなに間違いなんでしょうか?。実数を遺漏無く構成しようと思うと、 完備性とか同値類とかの概念的挟雑物(必要であり適正な数学的道具立てなのですが)が前面に出てきて、 どうしても原点のアイデアが霞みます。でも「物差し = 有理数 = 連続量」の図式は、それら数学的道具立ての後ろで、 最後まで生きていると思います。以下実数の構成のスケッチを試みます。

1.物差しと有理数

原始的な物差しのイメージは右図のようなものだと思います。 等間隔に単位距離0,1,2,・・・を並べ、その中間にある点pを表すために、単位距離の間に補助目盛を設けます。 ここで補助目盛のとり方は任意ですが、等分割が原則です。図-1では点pは、3/8となります。 補助目盛の中間にくる点qのような場合も同じです。 補助目盛のとり方は任意なので、もっと細かい補助目盛間隔を使います。例えば1/16とか。 ここで、採用した補助目盛間隔を1/nで表し(nは0でない自然数)、1/nを分割単位,その分母nを分割と呼んでおきます。
nは任意なので、実際いくらでも細かい補助目盛を使えます。 必要に応じて補助目盛をどんどん細かくしていけば(分割を大きくしていけば)、 数直線上のどんな点も表せるに違いない。すなわち十分大きなnをとれば、任意の実数は、

         (1)

で表せる。ここでmとnは自然数で、m≧0,n>1となり、「物差し = 有理数 = 連続量」の成立です。

2.有理数,小数展開,循環小数

 有理数においては、分割単位(補助目盛間隔)は任意でした。分割単位を任意にとれるところが有理数の便利さですが、 同時に混乱のもとにもなります。そこで分割の決め方を1つに固定し、有理数表現をシステム化したものが、 実数の小数展開だといえます。

         (2)

 式(2)のように、小数展開は補助目盛の分割を必要に応じて、1/10づつ細かくしてゆくものです。 小数も有理数も、発想の原点は同じところにあります。ところで有理数とは循環小数のことです(← そうですよね?)。

         (3)

 任意の有理数が循環小数であることは、簡単に証明できます。ちょっといかがわしいですが、 以下を 定理1 とその[証明]とします。

定理1 
任意の有理数は循環小数。

[証明]
式(3)左辺の割り算を筆算で追いかけるとわかるが、同じ余りが出た時点で以下同じ計算となり、商の循環が始まる。 よって有理数を小数に直す除算において、必ず同じ余りが現れることを言えば良い。
有理数を、



と表した場合、m/nを小数に直す船形計算において、その余りは 0〜n−1 のどれかとなる。 船形計算はいくらでも無限に続けられるが、その余りは 0〜n−1 の n 種類しかないので、 最大 n 回目の計算で同じ余りが出現する。従って、商は必ず循環する。ただし割り切れる場合は、0の循環とみなす。

                                   [証明終わり]

 定理1において本質的なのは、分母nが自然数であり必ず有限であることと、 船形計算はいくらでも続けられることです(例えば割り切れても、余り0をいくらでも割り続けることができる)。 これは本質的なことで、次の の小数展開と比較すると、その位置づけがはっきりします。

3.の小数展開,有限であるということ、無限であるということ

 は有理数ではありません。 その証明は、を既約分数q/pで表わせるとした場合、 pが偶数ならqは奇数でなければならないが、2=q2/p2 ⇒ 2p2=q2からqは偶数, pが奇数ならqは偶数でなければならず、pは2で割り切れてはいけないが、 2=q2/p2 ⇒ 2p2=q2 ⇒ p2=q2/2 から pは2で割り切れるので矛盾, 従って、既約な自然数qとpで=q/pと表すことは不可能、となる。
 この証明の意味はさておくとして、結果を認めれば 定理1 より は、循環小数ではないことになります。 循環小数ではないとは、循環しない無限小数のことです。とりあえずこれだけは認め、 の有理数近似を行ってみます。

 

 の有理数近似(4)において、小数部分の分割単位1/nに注目します。 例えば(4)の2行目は、0.4を表すのに分割単位1/5が必要だと言ってます。 分割単位の分母、分割と呼ぶことにしたnは、 n=5,100,500,1250,100000,1000000,2000000,25000000,・・・ と、 小数の近似桁数が上がるに従って増加していきます。どこまで増加するかというと、 これには終わりがありません。循環しない無限小数の分割nの増加に限りが無いことは、 次のように簡単に証明できます。

定理2 
 循環しない無限小数に必要な分割nは、有限でない(限りが無い)。

[証明]
 循環しない無限小数sに必要な分割nが有限だとする。nが有限なので、sは、

            (5)

と表せる。ここでmとnは自然数で、n≠0。(5)よりsは有理数なので、定理1より循環小数となる。これは矛盾。

                                     [証明終わり]

 定理2 の証明に、ある種の虚しさを感じるのは私だけではないと思います。何が虚しいかというと、 何故循環しない無限小数において分割nがどんどん大きくなるかを、定理1のように具体的な除算を展開して語っていな いからです。定理2はそうするかわりに背理法を用います。背理法を用いずに、必要分割nが限りなく大きくなることを 証明すること(構成的に証明すること)は、実はできません。理由はあきれるほど簡単で、循環しない無限小数に対して 図-2にような舟形計算を実行しようとした場合、割る数n(図-2では7)が ∞ になってしまい、どんな数値計算にも 載らないからです。何故 ∞ に対しては、まともな数値計算ができないのか?。∞ にはまともな数値的性質を定義で きないからです。それはどうしてか?。数値的性質を定義するためには、誰かが ∞ を1回は見る必要があります。 ところが、∞ は誰も見たことがありません。何故見れないのか?。もし誰かが見れてしまったら、それは有限だからです。 NO.1476の最後から5行目を引用します。
集合が無限であるとは、それが有限でないことをいう.       (6)

からです。これが無限の定義です。見れたら有限なので、自然数の一つになってしまうといっても同じです。 定理2は、本来到達できない場合のことを証明しようとしています。定理2を背理法によらないで証明することは、 本質的にできないわけです。それは、無限集合の定義(6)そのものが保証します。 無限に関する背理法証明の気持ち悪さは、すべて(6)に端を発していると、僕は思っています。 その代表格は、もちろんカントルの対角線論法です(後述)。
ところで定理2は、に関して ∞ の分割が必要だと言っています。 これを認めると、この節の冒頭であげた証明の解釈はどうなるでしょう?。 それはが既約分数q/pで表せるという仮定のもとで始まりました。 定理2によれば、p=∞ というのがその結果です。∞ に対して偶数だ、奇数だというのは意味を持つのでしょうか?。 ∞ にはまともな数値的性質を定義できない、とさっき言いました。 =q/pと仮定する冒頭の証明が矛盾するのは、まさにこのことを言っています。 (4)を見ればわかるように、分割nは、必要に応じて偶数にも奇数にもなります。そしてこれは確定しません。

4.暗黙の仮定

ここまでの状況をまとめてみます。

1) 連続量を表すために有理数を導入した。「物差し = 有理数 = 連続量」である。

2) しかし有理数では表せない数などがある。しかもその数は図-3に示すように、普通に定規とコンパスを使って作図できるので、 明らかに連続量の一つと思われる。

3) にも関わらず、その数に関しては有理数表現が不可能で、しかも循環しない無限小数で表されることがわかった。

そして次のことが暗黙に仮定されます。

循環小数(有理数)と循環しない無限小数(無理数)とで、連続量は表現される。   (7)


 (7)は本当に正しいのでしょうか?。(7)が本当に正しいかどうかは誰にもわかりません。普通、気にもされません。 気にもされないとは、誰もこのことを証明しようなどとは企てないことを意味します。 どうしてでしょう?。小数とは有理数表現をシステム化したもの、だからです。 そして「物差し = 有理数 = 連続量」という感覚を誰もが信じているからだと思えます。 たとえ小数表現が非循環であったとしても、原点のアイデアは誰もが正しいと感じるからです。 仮定(7)は実際のところ、物差しという現実の物体(物理的現実)から発想された物理的仮定です。 (7)に対して数学的議論を行うことはたぶん不可能なので、連続の公理とでもいうべきそれは、 数学書に陽な形では決して現れません。例えば森毅は、そのあたりの事情を完備性をからめて非常に短く語りました。 しかし困った事態になりました。

5.何が困るのか?

 困った事態とは、こういうことです。連続量は、循環小数と非循環小数の全体だと定義した場合、 循環小数は有理数で、その構成法や計算法がわかっていますが(q=m/nだ!)、 非循環小数については一般的な構成規則がわかりません。非循環小数についてわかっているのは、 とかの開平方による 特殊な場合の構成規則ぐらいです。その他全ての非循環小数は、どうやって定義したら良いでしょう?。 ところが素直に考えると、非循環小数の定義はすでにわかっているのでは?、という疑問が生じます。 実際こうやれば良いと思えます。いったい何が困るのか?



 このような感覚に襲われるのは、我々にとって[連続の公理(7)]が非常に強力な公理で、 たとえ非循環小数の小数数字の並べ方規則がわからなくても、それがあるのは確かなんだから、 別にいいじゃないかという気持ちになります。ですが(8)の下線部に注目すると、 循環する場合は「有理数m/n」とはっきりとした陽な数値表現を与えられますが、 循環しない場合は「ある無理数」としかいえません。この違いは重要です。 つまり循環しない無限小数を限りなく並べていったとき、それがある数値に収束することを(8)は保証してくれません。 これは数値計算上でも重要な問題で、例えば、

          (9)

のような計算を考えた場合、当然有限桁数で近似計算を行い、・・・の部分をやれるだけ追跡するわけですが、 追跡行為をどこまでも続行した結果が、ある数値になることの保証がこのままではありません。 (9)では足し算を例にとりましたが、四則演算が無限小数に対しても有効であることを保証するのは、 思いのほか重要なことです。[連続の公理(7)]が非常に強力なのは、それが連続量の有理数表現という発想の延長上 にあるからです。そして有理数の生成原理は四則演算です。
 以上の問題は[連続の公理(7)]が保証してくれるのでは?、と思えますが、(7)は数学の公理ではありません。 また(8)や(9)は現実の問題で、(7)がいかに明らかに思えても、(8)や(9)の近似計算が実際に収束しなければ、 (7)は誤った公理だということになります。非循環小数の収束性の保証が必要です。 そこは数学が保証しなければなりません。

6.コーシー列

 非循環小数を一般的に構成する規則を、有理数の場合ように四則演算に基づいて与えることはできません。 その限界がまさに有理数です。何故四則演算でなければならないかは[連続の公理(7)]のためです。 一般規則なので、個々の無理数は相手にできません(開平方による定義など)。 全ての無理数に共通する性質を取り出して、与え方を定義する必要があります。 さらにその与え方は、四則演算と整合する必要もあります。 手がかりは、四則演算だけを使う実数の小数展開法にあります。 再びを例にとります。

        (10)

 (10)に示したように、実数の小数展開操作は、数列 (an)n∈N(Nは自然数) におきかえることができます。限りなく続けた小数展開が収束することは、この数列の収束性で判定できます。 この数列が四則演算と整合することは、この数列の定義である小数展開が四則演算だけを使うことから、ほぼ明らかです。 ここで収束といったとき、論理的にはちょっと微妙な話が発生します。 例えば(10)において数列(an) は有理数の数列です。 ところが、その収束先であるは無理数で、 数列(an)の収束性によって定義しようとした、まさにそのものです。 これから定義しようとしたものが、定義の中に必要だという事態になります。 正確にいうと、有理数列(an)が収束するのはほぼ絶対に明らかなのだが、 収束先が有理数でないために未定義状態である。 収束先がないために、収束する数列に対して収束すると言えない。 何故なら数列の収束は、ふつう次のように定義されます。

        (11)

これをε-δを使ってくどくどと言い直すと(Rは実数全体)、

ε∈Rとして、あるβ∈Rが存在し、
任意のε>0に対してn0∈Nがそれぞれ定まって、n0<nなら|an−β|<ε       (12)
となります。収束判定には(11)や(12)のように、収束先βが登場します。 しかし(7)の助けを借りたにしても、(10)が収束することは明らかです。 しかもの無限小数展開を最後まで実行した人は誰もいないというのにです (無限の定義(6))。 収束結果は誰も見たことがないのに、収束すると確信できます。 収束結果を使わないで、数列の収束を判定する方法があるはずです。コーシー列は以下のように定義されます。

定義1(コーシー列)

ε∈Rとして、任意のε>0に対してn0∈Nがあり、n0<n,m なら|an−am|<ε.
となる数列(an)n∈N を、コーシー列という。いいかえれば、



のこと。

 定義1のε∈Rをε∈Q(Qは有理数全体)におきかえれば、Qまでは定義できたという現在の状況で、 コーシー列を収束判定に使えます。収束列がコーシー列であることは、簡単に証明できます。

定理3

収束列は、コーシー列。

[証明]

  

とする。不等式、



となる。                       [証明終わり]

 逆はどうでしょう?。任意の実数の小数展開がコーシー列であることは、すぐわかります(例えば(10))。 「コーシー列は収束列」が言えれば、有理数のコーシー列をもって無限小数展開の収束性を保証できそうです。 ただしまだ収束先は未定義状態ですが、本質は定義1で尽くされているように思えます。 その確信は(10)にような実際の計算経験に由来します。 そこで[連続の公理(7)]によって概念的には定義された実数全体Rが、すでにあるものと仮定します。 この仮定を受け入れると逆を証明できます。 受験数学の私的鉄則として、ある予備校の数学講師がこう言っていたのを思い出します。

「数学では、都合の良いことを先に想定してそこに向かって計算すると、けっこううまくいく・・・」
 問題解決の方法論として、アウトラインを先に見通して方針を立てよ、ということでしょうが、 この発想が結局は完備化の概念につながります。プログラムの世界のアプリケーション設計でも、 トップダウン方式は有効です。というわけで、それはあるはずだから、 実数の集合Rはすでに存在すると仮定します。

定理4

実数は定義されたと仮定する。コーシー列は収束列。

[証明]
 ふつう、この証明はほとんど無視されます。後述しますが、実数が定義され終わった状態では、 この事実は明らかだからです。それは有理数を完備化して実数を定義するという構成法そのものから来ていて、 これが実数論のわかりにくさの一つになっていると思います。 ここでは実際にコーシー列が収束列になることを見たいので、ベタな証明を試みます。
 一般に数列の収束性を扱う場合、それは本来到達できない無限の彼方の結果を出そうとすることです。 定理3のように、あっさり片付く場合もありますが、基本は「無限の定義(6)」です。(6)は次のように言っています。 「無限の彼方を証明したいなら、背理法によって有限側から攻めろ。それができること全てだ」と。
 コーシー列 (an)n∈Nが収束列でないと仮定する。収束列でないとは、(12)を再記した(13)の否定と同じ。

ε∈Rとして、あるβ∈Rが存在し、
任意のε>0に対してn0∈Nがそれぞれ定まって、n0<nなら|an−β|<ε      (13)
の否定は(ε∈Rは、読みにくいので省略する)、

任意のβ∈Rについて、あるε>0がそれぞれ定まり、そのεに対しては、
どんなn∈Nを持ってきても、|an−β|≧ε が成立つ              (14)
となる。(14)は確かに (an)が収束できない意味になる。ここでβは任意なので、β=amとおけば、

どんなn,m∈Nについても、あるε>0がそれぞれ定まり、
そのεに対しては、|an−am|≧ε である               (15)
となるが、これは定義1の否定である。よってコーシー列 (an)は、コーシー列でない。 これは矛盾。従って、コーシー列 (an)n∈N は収束列。
                                      [証明終わり]

7.コーシー列の同値類

 ここまででけっこう長くなってしまいましたが、この同値類さえ片付ければ、実数の構成はほぼ完成です。 あとは「完備化!」と叫ぶだけで事は終わります。前節までで、コーシー列と収束列は本質的に同じで、 コーシー列でもって任意の実数を定義できそうなことがわかりましたが、まだ問題があります。 それは、ある実数を定義するコーシー列は唯一つではない、という事実です。 例えば の小数展開(10)において現れたコーシー列(an)の部分列は、 やはりに収束します。 部分列のとり方は無数にあります。また現実的な数値計算を考えた場合、実際問題それは、 いくつかのコーシー列の間の演算になります。2つのコーシー列(an),(bn)を考えたとき、 それらが同じ実数を定義するのか、そうでないのかくらいを判定できないと、数値計算すらできません。 (an)+(bn)=(cn)とおいた場合、(cn)=(an+bn)で良いのか?という話です。 こんなの当たり前ではないかと思えますが、(cn)の収束先に収束するのは、(an+bn)だけではありません。 一つの実数を近似する方法は無数にあり、そのそれぞれがコーシー列を生み出します。 どんな近似方法をとっても(どんなコーシー列を使っても)、それが等価な近似であるならば、 常に同じ収束先を持つことを保証しなければなりません。しかも現在はまだ、実数を定義する以前の状態です。 次のような証明はできないわけです。



 コーシー列は収束先がなくても収束判定可能なので、再びコーシー列を頼ります。 次の関係が成立つとき、(an)と(bn)は同値なコーシー列であると言います。

定義2(同値なコーシー列)

 (an)と(bn)をコーシー列とする。

ε∈Rとして、任意のε>0に対してn0∈Nがあり、 n0<n,m なら|an−bm|<ε.
となるとき、数列 (an)n∈N と(bn)n∈N は同値なコーシー列であるという。 これを、(an)≡(bn):mode C で表す。 いいかえれば、(an)と(bn)をコーシー列としたとき、



のこと。

 現在はまだ実数を定義する以前なので、ε∈Rはε∈Qに読み替えてください。 次の定理はほぼ明らかですが、前と同じ理由でふつう無視されるので、やっておきます。

定理5

 実数は定義されたと仮定する。同値なコーシー列は同じ値に収束する。

[証明]
 (an)と(bn)を同値なコーシー列とする。 コーシー列は収束列なので、 が存在する。これは、



と同じこと。



となるが、(an)と(bn)は同値なコーシー列なので、



も成立つ。よって、



                                 [証明終わり]

同値なコーシー列は、同値類をつくります。同値関係を利用するわけは、すぐ後に述べます。

定理6

同値なコーシー列は、同値関係にある。

[証明]

1) 反射性
コーシー列の定義より、

(an)≡(an):mode C が成立つ。

2) 対称性

  

は明らか。
(an)≡(bn):mode C ⇒ (bn)≡(an):mode C が成立つ。

3) 推移性

  

なら、

  

となる。
(an)≡(bn):mode C かつ (bn)≡(cn):mode C ⇒ (an)≡(cn):mode C が成立つ。
                        [証明終わり]

 mode Cは定理6の1)〜3)の性質を満たします。 性質1)〜3)を満たす関係で結ばれた対象全体の集合のことを、同値類というのはご存知と思いますが、 同値類の一つの要素(代表元といいます)について成立つ性質は、同じ同値類に属する全ての要素に対して成立します。 それを保証するのが1)〜3)です。 今の場合、その関係はmode C(同値なコーシー列)というもので、 mode Cの関係にある2つのコーシー列は定理5より同じ収束先を持つため、 同じ同値類に属する全てのコーシー列は一つの実数を定義する、というわけです。 これによって、同値類に含まれる一つのコーシー列に対してある数値計算を確認しさえすれば、 その他の全ての同値なコーシー列を使用しても同じ結果になることが保証されます。 ここまでやって初めて、等価な近似という概念を正確に表現できたことにもなります。 しかしまだ先があります。

定義3(実数の定義)

有理数Qから生成される同値なコーシー列の同値類全体のことを、実数といいRで表す。Q⊂Rは明らか。

定義3が「完備化!」の叫びです。

8.集合論登場!(即物性と具体性の極み)

定義3はいったい何をいってるのでしょう?。 まずQ⊂Rなのは、Qから生成されるコーシー列の中には、有理数に収束するものも、もちろん含まれるからです。 そのようなコーシー列の同値類1つ1つは、ふつうに考えた有理数の1個1個と、1対1に対応して対応漏れもありません。 またここでは省略しますが、(an)と(bn)をコーシー列としたとき、 (an)+(bn)=(an+bn)として良いことが証明できます。 同様な関係式が四則演算全てで成り立ちます。そしてこの性質は同じ同値類に含まれる全てのコーシー列でも成立します。 ここから、αとβが有理数であり、それらがコーシー列(an)と(bn)の収束先ならば、その同値類をA,Bとして、

α+β ⇔ (an)+(bn) ⇔ A+B         (16)

という対応が考えられます。(16)の最右辺のA+Bは、コーシー列 (an)+(bn) の動作を媒介として、同値類にも足し算を拡張定義できることを意味します。 有理数の生成原理とは四則演算でした。四則演算全てに対して、(16)にような拡張定義が可能です。 四則演算から有理数は生成されると考えるならば、ふつうに考えた有理数αと、対応する同値類Aは、 有理数に要求される全ての性質を同等に備えています。 ここから同値類Aと有理数αは、数として同じものだという話になります(これを同一視すると言います)。 だからQ⊂Rです。ただし非常にわかりにくい有理数の定義であることは確かですし、 有理数に対してはこのような定式化は余計です。一方 (an) が無理数に収束する場合はどうでしょう。
 コーシー列を持ち出したもともとの理由は、一般的な無理数の与え方が、現実問題として無限小数展開を 利用するしか手がなかったからです。ではこの現実問題は、解決可能でしょうか?。 「それはできない」という敗北宣言が定義3です。無限のパターンがあり、無限に桁数が増えていく小数展開に対して、 言葉による構成的規則付けはできなかったと言っても同じです。これは無限に対する敗北宣言でもあります。 その根はやはり、無限の定義(6)です。ここで集合論が登場します。

言葉による構成的定義は不可能でも、非構成的にそれらを集めることはできる!。
(定義3にように、集まったと思えば良い!)

 集めたから何だっていうんでしょう?。集合論には、次のような思想が通低していると思います。

ある性質について語る事と、その性質を満たすものを全て並べて見せることは同じだ!

 今の場合には、こうなります。コーシー列を持ち出したもともとの理由は、 無限小数展開を利用するしか手がなかったからです。(6)より、もしこれしか手がないのであれば、 あるコーシー列が定義する同値類には、我々が無理数に関して行える全ての行為の結果が含まれています。 我々がある無理数について、有限操作で知りえる全ての情報がそこには詰まっています。 そして、それをもとにして無理数を定義したのでした。

だったら、その同値類を無理数だとみなすしかないではないか。
我々のできることは、それで全てだ。   (17)

たぶんこれが、定義3の本当の意味です。集合論は抽象的だと思われがちですが、反面このように、 嫌になるくらいの即物性と具体性の権化です。
 このような傾向はヒルベルトの形式主義以来、ブルバキによる構造主義を経て、確実に定着したと思います。 形式主義や構造主義において、実数や無理数などの対象物は無定義要素とみなされます。 無定義要素間の関係を正確に定義することにより、関係が逆に無定義要素に意味を付与するというのが、 構造主義の立場です。しかも意味を汲み取るかどうかは、ある理論を読んだ人の勝手ということになっています。 数学理論がある思想や意味に基づいて立てられるのは確かだと思いますが、定式化はそうでないということです。 この立場は初学者に対して、過大な訓練を要求します。どうしてかというと、無定義要素で書かれた公理を我慢して 読んで(おぼえて)、理論全体をある程度理解し見渡した後で、初めて意味がわかるからです。 その上、意味を汲み取るかどうかについては読んだ人の勝手なのですから、初学者の解釈は間違いかもしれません。 初めて実数論を読んだ人が、「明快な解答が用意されていた」などと思うわけがありません。

9.再び「完備化!」

 では論理的な順序に従った実数の構成を述べます。

指折り算(数にようなもの。範囲は有限)⇒ 自然数N ⇒ 整数Z ⇒ 有理数Q ⇒ 実数R

@の生成原理: 加法によるペアノ公理系。加法の省略記法として乗法を導入。
Aの生成原理: 加法の逆演算減法。減法に対するNの代数的対称化。
Bの生成原理: 乗法の逆演算除法。除法に対するZの代数的対称化。
Cの生成原理: Qの完備化。Qのコーシー列の同値類全体の一部として、Qを同値類全体の部分集合と同一視し、 Qとコーシー列の同値類全体の合併をとる。

 定理4と5がふつう無視される理由は、生成原理Cです。コーシー列は収束列でしたが、 収束先がQの中にないために、それを収束列とは呼べませんでした。ところがコーシー列は本質的には収束列なので、 それ自体を収束先と同一視し、それを全てQに添加するというのがCです。収束して欲しいものを収束結果と同じだ みなして添加するのですから、実数Rの中でコーシー列が収束するのは当然です(定理4)。 またコーシー列は収束列なので、同値なコーシー列が同じ実数に収束するのも当然です(定理5)。 完備化の正式な定義は、以下のようになります。

定義4(完備化)

 任意のコーシー列が収束できるようにすることを、完備化という。

 森毅は「完備化すればコーシー列が必ず収束すること」について、「そういう風に造ったんだから、 そんなの当たり前だろう!」と怒りました。そして「実数理論は、数学的には正当だが都合の良いフィクションだ」 と言い切ります。私はこれを[連続の公理(7)]のことを言っているものと、勝手に解釈しています。
 生成原理@〜Bには、実数のアイデアの原点「物差し = 有理数 = 連続量」が明確に働いていると思います。 BからCへの移行には、その延長線上にある(7)が必要です。それを認めた上で、そうするしかなかったことを明確 に認めたのが(17)と思えます。[連続の公理(7)]は数学の公理ではありません。現在のところ誰も証明できていません。 する必要があるのか?という議論も含めてそう思います。数学基礎論とは、きっとこういう話をやってくれる 分野に違いないと、勝手に思っていた時期がありました。
 実数の構成は最後の最後まで、「物差し = 有理数 = 連続量」のアイデアの延長線上にあります。 実数概念に対する原点のアイデアは、ほとんどそのまま正しかったのだと思います。 ただ思わぬ処で無限大に出会ってしまったという、ただそれだけの事です。そういう意味において、 コーシー列やその同値類は数学的には必要で適正な道具立てですが、原点のアイデアの不備を補う面倒な補助議論だっ たとするのは、やはり言い過ぎでしょうか?。

10.最後に対角線論法

 ここでいう対角線論法とは、実数の個数が有理数より多いことを示す端的な証明のことです。 集合Aの要素の個数を Card(A)で表します。

Card(N)=Card(Z)=Card(Q)     (18)


が成立ちます。Card(N)は可算無限といわれ、Nの定義から明らかなように、任意有限全てを集めた無限です。 要素は全部有限なのに、何故その集合は無限になるの?と思われる方は、我田引水ですがNO.1476をご覧ください。 私にわかる限りは、そこで説明しました。可算無限はまた、無限の寿命を持った人間がいたとして、 の人が到達できる最大の無限です。これは、人間が到達できるかもしれない繰り返し回数の最大であると言いかえても 同じです。NからQへの数の拡張は、生成原理@〜Bに対応して全て代数的なものです。 代数操作の繰り返し回数は有限が基本なので、その全体は、人間が到達できるかもしれない繰り返し回数の 最大である可算無限に等しくなります。 そう考えると、可算無限なNから可算無限な代数的拡張で到達したQもやはり可算無限で、 Card(N)=Card(Q)なのはある意味当然なのかもしれません(最初は肝をつぶしますが)。 要するにNからQへの拡張には、極限操作が含まれていないということです。 QからRへの拡張には、コーシー列という極限操作が基礎になります。 この極限操作の結果が、いかに大きな無限大を生み出すかを示すのが、カントルの対角線論法です。 証明自体はあっけないくらい簡単ですが、またも背理法です。

定理7(対角線論法)

    Card(N)<Card(R)。

[証明]

 R全体では扱いにくいので、区間I=[0,1]を例にとる。Card(I)≦Card(R)は明らか。 Card(N)=Card(I)が成り立つかどうかの判定を行う。 それには、Iの要素1個1個を、Nの要素である0,1,2,・・・で番号付けしていけば良い。 番号漏れがなければCard(N)=Card(I)。
 Iの要素を小数展開し番号付けしたところ、番号付けに成功したと仮定する。それを想像すると下図。

  


ただしaijは数字0〜9のどれか。ところが次のような実数αを構成できる。 α=0.b1 b2 b3 b4 ・・・ ここで、biは図-4のaiiと必ず違う数とする。 そうするとαの小数以下i桁目biは、図-4のIの要素の対角線a11,a22,a33,・・・と必ず異なるから、 αは図-4に表れるどのIの要素とも等しくない。かつ0≦α≦1は明らかだから、α∈Iでもある。 すなわちCard(N)=Card(I)として番号付けに成功したと仮定したら、番号漏れがあった。これは矛盾。 よって、Card(N)<Card(I)≦Card(R)。
                            [証明終わり]

 Card(N)=Card(Q)だったので、これは有理数全体の数をもってしてもCard(R)には及ばないことを意味します。 Card(R)は連続無限と呼ばれますが、この無限は可算無限よりどれくらい大きいのでしょう?。 「無限の定義(6)」を思い出してみます。それは、

集合が無限であるとは、それが有限でないことをいう.


というものでした。そのために無限に関わる証明を行う場合には背理法が本質的手法となり、 背理法によって無限を有限側に引き戻して証明するしかない事態となります。対角線論法も背理法です。 背理法によって連続無限を可算無限側に引き戻して証明しています。今の場合に(6)に相当するものを想像すると、

連続無限であるとは、それが可算無限でないことをいう.


となりそうです。(6)で定義された無限に対して、全ての任意有限はカスに等しいくらい小さなものです。 ということは、連続無限は可算無限がカスに見えるくらい大きなものであることが想像できます。 定義3のたったの一文に非構成的に含まれていた極限操作は、超巨大です。 それは無限の寿命を持った人間にも到達できない無限です。



NO.1486 2004.9.19.水の流れ3本のくじ(1)

第144回数学的な応募問題

太郎さんは、NHK人間講座「数学の愛しかた」ピーター・フランクルを聴いています。 その中のテキストにこんな問題があります。「ロトくじには、1から90までの数字が順に並んでいます。 この中から隣り合う数字がないように5個の数字を選ぶ選び方な何通りあるでしょう。 つまり選んだ数字に差が1にならないようにします。」

さて、この問題の解答を観ていて、次の問題を思いつきました。

「n個の整数1,2,3,・・・、nが書いてあるくじがあります。この中から3本のくじを引くとき、 次のようなくじの引く方は何通りあるか。(ただし、n≧7とする)

問題1: 3本のくじに書いてある数字のうち、どの2つの数の差も0以上となる場合。
この場合は、くじを1本引いたあと、このくじを元に戻してください。

問題2:3本のくじに書いてある数字のうち、どの2つの数の差も1以上となる場合。

問題3:3本のくじに書いてある数字のうち、どの2つの数の差も2以上となる場合。

問題4:3本のくじに書いてある数字のうち、どの2つの数の差も3以上となる場合。


注:NHK教育テレビ毎週火曜日午後10:25〜10:50 (8月3日から9月21日の9回)
  再放送は毎週火曜日午前05:05〜05:30 (8月10日から9月28日の9回)
  再々放送は毎週木曜日午前02:00〜02:25 (9月2日から10月21日の9回)




NO.1487 2004.9.22.三角定規可換な行列の全体(2)

ここでは,

与えられた実2次正方行列Aに対し,AX=XA をみたすゼロでないXは ある p,q を用いて X=pA+qE …… @
となっています。
 しかし,容易にわかるように,任意の p,q に対し X=pA+qE で与えられるXは, AX=pA2+qA=XA ……A をみたします。
 さらに,X=O のとき AX=XA=O となることは自明で興味に乏しいから, X=O を除外したくなる気持ちがわからなくはありません。 ただ,こうすることによって,A=kE のとき q=−pk とすれば, X=pA+qE=O となるので A=kE も除外したくなる。 (本問)

 しかしながら,議論の要はこんな些末なことの除外ではなく, Aと可換な X は pA+qE の形に限るのか,ということでしょう。

 必要条件はAから明らかなので,十分条件 AX=XA → X=pA+qE ……B が示されればいいのですが, 残念ながら私にはこの証明ができません。X=pA+qE の形ではないいくつかのXが AX=XA をみたさないからといって, Bを証明したことにはなりませんから。もっとも2次行列の場合には yokodon さんが指摘されているように,成分計算でBが示されるのですが。

 ただ,問題の背景にあるのは以下のことでしょう。Aを2次正方行列として

(1) 任意の非負整数mについて,あきらかに,A・Am=Am・A。ただし,A0=E。
(2) よって,X=p0Am+p1Am-1+…+pm-1A+pmE とAは可換。
(3) A2=tr(A)A−det(A)E (Cayley-Hamiltom)を用いて次数を下げ, Aの2次以上の項はすべてAの1次式にできるから(2)のXは,pA+qE の形で表せる。

 このことを2次以上に拡張すると,
(1)(2)はそのまま成り立つ。
(3) Aの固有方程式 |A−λE|=(−1)nf(λ)=λn−c1λn-1−…−cn において f(A)=O (Cayley)
が成り立つから,An=c1An-1+…+c0E。(c1=tr(A))
 よって,(2)のAの多項式Xの次数がn-1次以下ならばそのままで,n次以上ならn-1次まで次数を下げることができ, そのXはAと可換である。(十分性の証明はなし)








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