Weekend Mathematicsコロキウム室/NO.149

コロキウム室



NO.1260 2002.9.1.水の流れ等比数列

第104回数学的な応募問題

太郎さんは、1から100までの整数(1も100も含めて)から異なるN個を選んで等比数列を作るとき、その作り方が何通りあるか考えてみました。 ただし、数列は単調増加とします。 ここで、問題です。

問題1.N=7の場合は何通りあるか。

問題2.N=6の場合は何通りあるか。

問題3.N=5の場合は何通りあるか。

問題4.N=4の場合は何通りあるか。

問題5.N=3の場合は何通りあるか。




NO.1261 2002.9.2.夜ふかしのつらいおじさん自然現象と数学の関係について(3)

NO.1259ですが、 偶然に支配されるのは確率によっているだけです。
「不確定性原理」は ハイゼンベルグのものとすれば物体の位置 と運動量を同時には知ることが原理的にできないということで意味が違うと思います。



NO.1262 2002.9.3.Junko等比数列(2)

答(1)1通り  (2)3通り  (3)8通り  (4)20通り  (5)105通り

初項a、公比rとします。
初項aは1以上の整数ですが、公比rは必ずしも整数である必要はありません。

(1)ar≦100、よりr≦100
r=2
{1,2,4,8,16,32,64}の1通り

(2)ar≦100、よりr≦100
r=2
{1,2,4,8,16,32}とその整数倍を合わせて3通り

(3)ar≦100、よりr≦100
r=2、3
さらにこの2つを組み合わせた有理数として、r=3/2
r=2:{1,2,4,8,16}とその整数倍を合わせて6通り
r=3:{1,3,9,27,81}の1通り
r=3/2:{16,24,36,54,81}の1通り
合わせて8通り

(4)ar≦100、よりr≦100
r=2、3、4
さらにこの2つを組み合わせた有理数として、r=3/2、4/3
r=2:{1,2,4,8}とその整数倍を合わせて12通り
r=3:{1,3,9,27}とその整数倍を合わせて3通り
r=4:{1,4,16,64}の1通り
r=3/2:{8,12,18,27}とその整数倍を合わせて3通り
r=4/3:{27,36,48,64}の1通り
合わせて20通り

(5)ar≦100、よりr≦100
r=2、3、4、5、6、7、8、9、10
さらにこの2つを組み合わせた有理数として、r=3/2、5/2、7/2、9/2、4/3、5/3、7/3、 8/3、10/3、5/4、7/4、9/4、6/5、7/5、8/5、9/5、7/6、8/7、9/7、10/7、9/8、10/9
r=2:{1,2,4}とその整数倍を合わせて25通り
r=3:{1,3,9}とその整数倍を合わせて11通り
r=4:{1,4,16}とその整数倍を合わせて6通り
r=5:{1,5,25}とその整数倍を合わせて4通り
r=6:{1,6,36}とその整数倍を合わせて2通り
r=7:{1,7,49}とその整数倍を合わせて2通り
r=8:{1,8,64}の1通り
r=9:{1,9,81}の1通り
r=10:{1,10,100}の1通り

r=3/2:{4,6,9}とその整数倍を合わせて11通り
r=5/2:{4,10,25}とその整数倍を合わせて4通り
r=7/2:{4,14,49}とその整数倍を合わせて2通り
r=9/2:{4,18,81}の1通り
r=4/3:{9,12,16}とその整数倍を合わせて6通り
r=5/3:{9,15,25}とその整数倍を合わせて4通り
r=7/3:{9,21,49}とその整数倍を合わせて2通り
r=8/3:{9,24,64}の1通り
r=10/3:{9,30,100}の1通り
r=5/4:{16,20,25}とその整数倍を合わせて4通り
r=7/4:{16,28,49}とその整数倍を合わせて2通り
r=9/4:{16,36,81}の1通り
r=6/5:{25,30,36}とその整数倍を合わせて2通り
r=7/5:{25,35,49}とその整数倍を合わせて2通り
r=8/5:{25,40,64}の1通り
r=9/5:{25,45,81}の1通り
r=7/6:{36,42,49}とその整数倍を合わせて2通り
r=8/7:{49,56,64}の1通り
r=9/7:{49,63,81}の1通り
r=10/7:{49,70,100}の1通り
r=9/8:{64,72,81}の1通り
r=10/9:{81,90,100}の1通り

合わせて105通り

こんなにたくさんの等比数列があるとは、思いもしませんでした。



NO.1263 2002.9.4.wasmathぞろ目(3)

以前,「ぞろ目の三角数は55,66,666に限られるか」が 話題になっていましたが, 「〜に限る」という形の命題は, カタラン予想のように,一般には難しいと思われます。

そこで,四角数(平方数)に目を向けてみると, 「ぞろ目の四角数は存在しない」ことが簡単に示せます。 機会があれば,取り上げていただければ,と思います。 私のHP( に少しヒントをつけて9月号の問題として取り上げています。 (解答は10月1日更新時)



NO.1264 2002.9.5.yokodon2直線上の動点の距離

模試シリーズ12
空間に2本の直線 l と m があり、点Pは l 上を、点Qは m 上を、それぞれ一定 の方向に速さ1で動いている。
時刻を t(-∞ < t < ∞)とすると、t = 0, 4, 8 のときの2点P,Q間の距離 がそれぞれ 8, 4√2, 4√2 であったという。
2点 P,Q 間の距離の最小値と、l と m のなす角の大きさを求めよ。



NO.1265 2002.9.5.BossF等比数列(3)

等比数列の一般項は、初項=a 公比=r として
  an=arn-1 とかけます。
また、求める等比数列は、題意より
  a∈{自然数} です。
以下文字は r 以外全て自然数とします
また、 「単調増加」は、異なる数を選ぶから、狭義である i.e. r>1 であることに注意します。
また、a=k・p のとき、r =s/p (p<sかつ、互いに素)とすると、 aq+1=k・s まで整数が続くことにも注意します。…@
(例;a=2 、r=3/2 とすると、q+1項=3 )
さて 3≦N≦7で、 r ≧2 ですので、 まず2乗〜6乗までの100以下最大の累乗数を求めておきますと、
26=64, 34=81, 43=64, 52=25, 62=36, … , 102=100…A
以下@Aに注意して問題を解きます

視察により
問題1 N=7 のとき (a,r)=(1,2)      一通り…答
問題2 N=6 のとき (a,r)=(1,2),(2,2)   二通り…答
問題3 N=5 のとき 
(a,r)=(1,2),(2,2),(3,2),(4,2),(5,2),(6,2),(1,3),(16,3/2)   八通り…答
ここからは、ちょっと計算

問題4 N=4 のとき 
a4=k・s3≦100 を満たす、(k,s)を考えますと
s3≦100 が必要ですから s≦4
s=4 なら k=1 で p=1,3
s=3 なら k=1,2,3 で p=1,2
s=2 なら 1≦k≦12 で p=1
したがって、1x2+3x2+1x12=20通り…答

問題5 N=3 のとき  問題4と同様に
a3=k・s2≦100 を満たす、(k,s)を考えますと s2≦100 が必要ですから s≦10
s=10 なら k=1 で p=1,3,7,9
s=9 なら k=1 で p=1,2,4,5,7,8
s=8 なら k=1 で p=1,3,5,7
s=7 なら k=1,2 で p=1,2,3,4,5,6
s=6 なら k=1,2 で p=1,5
s=5 なら 1≦k≦4 で p=1,2,3,4
s=4 なら 1≦k≦6 で p=1,3
s=3 なら 1≦k≦11で p=1,2
s=2 なら 1≦k≦25で p=1

したがって 1x4+1x6+1x4+2x6+2x2+4x4+6x2+11x2+25x1=105通り…答




NO.1266 2002.9.6.浜田 明巳

いつも疑問に思っている事をひとつ.

問1.問1の答
問2.問2の答
問3.問3の答

と答えたとします.確かに慣習的(社会的?)に見れば,正解の訳がありません.これが許されるのなら,正義はどうなるんだ! と叫びたくもなります.しかし純粋に数学的に見れば,これが正しくないと言えるのでしょうか? 正しく答えたはずだ,との主張を,数学的に否定することは,果たして出来るのでしょうか? 勿論,最初から問題文に「何とかの答」みたいのはだめだよ,と書いておけばいいのでしょうが,普通書きませんよね.



NO.1267 2002.9.6.DDT自然現象と数学の関係について(4)

NO.1259でJunko先生曰く。
「数学も含めて自然科学(現象)について、人間がそれを認知できるかどうかは別問題ですが、 ある法則、原理が働いていると思います。それを人間が認識できるべく研究してきたことが人類の歴史なのではないかと思います。・・・円周率πは人間が認知しようとしまいと存在するので・・・」(一部略)
即物性の強い分野で働いているからかもしれませんが「それが人類の歴史だ」と僕も思います。ただ「πが存在する」からといって「自然に数理原理が存在する」とは、ちょっと言い淀んでしまいます。これは300年前の理論が未だに現役といった分野で働いてる性なのですが、「自然に数理原理が存在する」とかなりの人が信じるようになったのは、けっこう最近の事ではないかと思えるのです。ただし数学が科学でないなどとは言いません。個人的には、経験的実証科学だと思っています。だから完全に恣意的な公理系はゴミなのです。以下、古代〜現代までの自然の説明の仕方を大雑把にまとめます。つまりそれはこういう訳です。

@ 古代〜中世で主流だった自然学は、アリストテレスの生物学的自然観です。例えばそこでは天体間の引力は、同種の動物が惹かれ合って群れを作るように、同種の物体である天体間は引き合うと説明されます。アリストテレス自然学は、このような定性論を徹底的に推し進めて宇宙全体の包括理論を造ります。よって引き合う力は数式では表現されません。引力の強さは、友達関係,親友の間柄,恋人同志,愛し合ったとかいう風に表現されます(あくまで例えです)。従って、そこでの主要な科学方法論は万物を分類するだけで良いという、受動的な方法になります。アリストテレス自然学は、数学的にも精緻を極めたスコラ哲学と結び付いて中世において完成され、1000年以上の長きにわたりヨーロッパを支配します。しかしそれは数理原理を認めた事ではありません。スコラ哲学は数学で処理できるところを自然から齧りとって、まさしくマニアックに研究したのです。自然の全てを数理的に解決できるかもしれないなどと言う事は、思いもよらない事でした。

A 古代〜中世で主流でなかった自然学に、数学的神秘主義または数学的プラトニズムがあります。有名所では、プラトン,ユークリッド,コペルニンクス,チコ・プラーエ,ケプラー等がいます。この立場では宇宙は数学的に造られており、自然の全てを数理的に解決できるのは自明となります。それゆえに実験思想はありません。望んだ応えを出させるように自然を強制するという意識に欠けるため、やはり受動的な自然認識と言えます(実態は嘘です!。少なくともコペルニンクス,チコ・プラーエ,ケプラーは、涙が出るくらい実証的でした。ここではその実証性の情熱の源泉、思想の話と捉えて下さい)。そしてかなりの人々は、この立場を信じていませんでした。

B 近代への入り口においてガリレイが現れます。ガリレイの決定的な新しさは@やAの立場の前提を拒否した事です。@やAは何らかの存在論を自明とします。@においては万物が生物的に存在するのは自明とされますし、Aでは世界は数学的存在物だとされます。このような自明性は先験的明証性と言われます。先験的とは経験不要という事です。実証する必要がないのです。あらゆる先験的明証性を拒否した事が、ガリレイの近代性でした。例えばAの立場で、何故数学が正しいのかと問われたら、自然は数学的に造られているから正しいとなります。ガリレイは確かに「自然は数学的言葉で書かれている」と言いました。しかしガリレイにとって数学が正しいのは、数学自体が正しいから正しいのであって、人間が数学を上手く使えるからです。正しく使える数学によって、自然の中に数式を発見したと言っても同じです。これは「数式が自然の中にもともとあったと思う事」とは全然違います。「あるかどうかわからないが、どうしてもあるように思える」。ガリレイは、自然現象を数式で捉えること自体に認識主体を見ました。そして発見した数式が自明に正しい保証は、もはやどこにもないので確認を取る必要が生じます。そこから近代の実験思想が登場し、ガリレイはほぼ現在に通じる立場を確立しましたが、この時点で彼が包括的に成功したわけではありません。ガリレイが定式化に成功したのは、地上物体の力学(大気圏内の落体理論を含む)だけでした。この時点で包括的に成功していたのは、やはりアリストテレス自然学しかありませんし、ガリレイの方法が大々的に成功するという保証もありませんでした。

C ガリレイの少し後、中世の崩壊が決定的となった頃デカルトが現れます。デカルトはガリレイと同じく自然現象を数式で捉えることに認識主体を見たのですが、デカルトは数学を自然に適用する事についての先験的明証性を受け入れてしまいます。その理由は、それはそれはユニークなものでした。デカルトは確かに天才だったのだと思います。

純粋理性批判で有名なカントは、こう言います。
「人間は何故、偶然的で主観的な自然的事象の総体から、客観的な因果律等を認識できるのか?」
カントの結論はこうでした。
「人間は客観的な関係性を見抜く能力=理性を先験的に持っている。それが客観性の根拠だ!」
デカルトはこう言いました。
「人間は自然の中に数学的関係という客観的関係を見抜く能力=悟性を生まれながらに(先験的に)持っている。だから自然は数学によっての捉えうる」

この結論は、数理原理の存在についての特効薬のように見えます。何故なら逆に言うと、人間は自然を数学的にしか認識し得ないのです。よって数理原理の存在は自明であり、今まで数式を使って上手くいっていた事も何となく納得できます。しかしここに存在論があります。それは「全てに宇宙にも先立って、まず悟性がなければならない」という存在論です。何故なら、それがなければ自然を観ることすらできません。デカルトの自然学は「我思う故に我あり」と良く似た「我思う故に物あり」という観念論でした。でもデカルトの意図は別の処にあります。彼は「分類するだけで全てが解けてしまう」ようなアリストテレス自然学を、一掃しようと思っていました。アリストテレスのような科学方法論,認識論を採用すれば、いつでも経験事実を適当に解釈する事で、あらゆる事が説明可能になり、自己無矛盾性,反証可能性といった類いのテストにも、論理的には突破不可能な免疫力を持ちます。摩訶不思議見える自然現象にも論理的順序関係を主体的に想定する事で因果関係を見抜ける!、とデカルトは思っていました。デカルトも自然現象を数式で捉えること自体に認識主体を見ていました。しかしアリストテレスは余りにも強大な包括理論で、しかも無限の免疫力を持ちます。デカルトは、数理に満ちた宇宙をまるごと一個提出する必要に迫られます。それは著作「宇宙論」の中で行われますが、そのために悟性の存在論が必要でした。何故ならそれを認めれば、「宇宙は数学的に造られている」と言ってしまえるからです。この立場はAと紙一重です。デカルトの意図は成功しました。当時のヨーロッパの最先進国であるフランスの一般教養になりました。

彼は物理学(自然学)を、こう定式化します。

「機械学および数学の原理のみで、世界は解ける」


数理原理の存在を唱えて包括的に成功したのは、デカルトが最初です。ただし技術面では、これに失敗します。 Dで。ニュートンが出ます。市民社会成立前夜でした。ケインズによれば、ニュートンその人は非常に中世的色合いの濃い人だという事です。ニュートンは、宇宙に遍在し、宇宙を体の一部とするような神が、重力を制御し伝えるのだと考えていました。しかし彼はこの思いを決して口しません。日本語では「自然哲学の数学的原理」と訳された「プリンピキア」を残して逝ってしまいます。要するに、力学に関する自分の見つけた数理的関係は正しいだろうから、そこに意味を付けたいなら勝手にやってくれという態度です。実際ニュートンは、「力という言葉は、圧力とか衝撃とかという言葉と同じように、現象を数学的に説明するために区別なく使う」と度々注意し「それによって、私が力の成因なり原因なりを指定したとは思わないで欲しい」と繰り返します。とどめは「私は仮説を造らない」です。ただ現象間の関係を記述しただけだというわけです。この限りではニュートンは、とても現代的です。ただケインズはニュートンのことを最後の魔術師と言いました。
(ケインズとは、自由主義経済で完全雇用は可能だと言った、第二次世界大戦後の自由主義経済圏の一貫した方針を考え出した20世紀の経済学者ケインズの事です。ニュートンの遺稿を散逸から防ぎ、今さらニュートンを中世的色合いの濃い人間だったなどと言えるのは、全て彼のおかげです。ところであなたはケインズを知ってます?昔になったなぁ〜〜)

その後ニュートン力学はデカルトにも増して汎地球的に包括的に大成功します。その後の400年の間、小は家屋建て増しの力の釣り合い問題から、大は明石海峡大橋の構造問題,スペースシャトルの製造から打ち上げに到るまで、銀河の回転運動の果てに到るまで、ひたすら具体的要求に応え続けて4世紀、一回も不正解を出していないのです。史上初めて、

力学的な数理計算だけで、世界は解明できるかもしれないという可能性が生じました


これはかつてなかった事です。それだけではありません。分子運動を力学的対象とみなし、分子集団の力学的運動に統計操作を施す事によって熱力学を基礎付ける統計力学が生まれます。電磁気学を造り上げたファラデーやマックスウェルは、最初電磁現象を力学モデルで考えていました。こうして、ニュートン自身は一回も彼の思想を口にしたことがないくせに、思想は後から着いて来ます。近代のとば口にいたガリレイが苛烈に拒否したはずの先験的明証性は、力学の名のもとに復活します。それが力学的自然観です。「全てに宇宙にも先立って、まず力学法則がなければならない」。ニュートン力学を造ったニュートン自身には、そんな事は思いもよらない事でしたが、それを防ぐには彼の力学は余りにも性能が良すぎました。そのうえ力学的自然観は、ガリレイとデカルトまで受け継ぎました。デカルトを受け継いだために「機械学および数学の原理のみで、世界は解ける」という前提があり、ニュートンが包括的に成功したために「それは当然だ!」という感覚が付いて回ります。にも関わらずガリレイを受け継いだために「数学を自然に適用できる権利根拠を一切問いません」。「実験しろ!」と言うだけです。近代以降の科学は、どこかで数理原理の存在を認めているはずなのですが、ニュートンの重力を伝える神と同じように、それは公には決して口にされません。近代以降の科学は、この点に関して非常に歯切れが悪いです。

力学的自然観は、量子力学と相対性理論の出現によって最終的にとどめを刺されます。しかしカリレイとデカルトは残りました。デカルトの汎数学的全面合理主義は、現在のところニュートンの包括的成功によって、証明された形になっています。一方、先見的明証性の拒否に基づくガリレイの実験思想は、現代では研究が余りにも摩訶不思議な自然の深遠部分に達するものとなってしまったため、確認をとる事よりも、理論に対する手掛かりを発見する方に傾いているように思えます。もちろん理論の正否は確認実験によって、最終的には決められます。

「もちろん数理原理の存在を信じてます。ニュートン以後ですから」
「でもこれは、声を大にして言ってはいけないのです。ですから、こっそりと・・・」








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